モイライは笑わない 1

(こっちむいて、ねぇ?)


其の声にゆっくりと目を開くと、窓から差し込む不気味な光が白いシーツを緑色に染めていた。
ムツキはベッドの縁に腰掛けた儘、顔だけをゆらりと上げる。
両の目に映ったのは少女の人形の様な影。
ゆら、ゆらと空中に揺れる不安定な様は其の影が人では無い事を想像させる。
先程の声の様なものも音は伴っていない。
そして恐らく笑っているのであろう顔面にあたる部分はムツキの方に向けられていた。
(きょうはおでかけ、しないの?)
音は伴わないものの疑問だと言う感情をたっぷり含ませた声と傾けられた頭。
其れ等を見ると自分が問われている事を理解させられる。
ムツキは表情の抜け落ちた顔で首を二、三度横に振った。
(おでかけするの?おでかけするのね?)
「うん、」
(こんやもたくさんあそびたいの、いい?)
「いい、よ、」
今度はとびきり嬉しそうな声と長く伸びる淡い金色の髪を揺らし、ふわり、と身を翻す。
まるで小さな子供の様だ。
ムツキは小さく一つ頷いて、手元に有った短剣と短銃を腰のベルトに挟み込んだ。
影は無邪気な笑い声を上げて其れを見る。
そうして瞬間もう一度笑ったかと思うと、ふわ、と空気に溶けて見えなくなってしまった。
時を同じくしてムツキは重いドアを開き、顔を上げた。
23時49分。


「遅いぞ、黒姫」
エントランスに入ると桐条が声を掛ける。
呆けて居た時間が長かったのだろう、ムツキは其の言葉で漸く目が覚めた感じだった。
「すみません」
「体調が思わしくないなら、休んで居て良いぞ」
凛々しく厳しい其の様子に、いつも息を飲み少し竦んでしまう。
しかし其れは厭味等では無く、彼女の真面目さから来るものだと言う事を知っている。
「大丈夫、です」
「そうか、これで揃ったな」
ぴし、と伸ばされた背筋は扉の方へと遠ざかり、ムツキも其の後をぼんやりした表情の儘追った。
開かれた扉からは瞬間、ぶわ、と圧力が溢れ出す。
「行くぞ」
空はやはり未だ緑色に光り、不気味な迄に静かだった。
曲がりくねった回廊は薄気味悪く、何処と無く寒気を感じさせる。
血の染みた様な床に崩れて重なり合った様な扉、其処には形容し難い者達が蠢いて居る。
タルタロスと呼ばれる場所。
空間が緑色を纏う時間、彼等を駆除する為に其処に足を踏み入れる。
其れが所謂、活動、なのだった。
0時4分。


「美鶴」
何歩か進んだ所で真田が桐条を呼び止めた。
「如何した」
何事か、と桐条が振り返り真田を見ると、まるでこの状況を楽しんでいるかの様なそんな顔をしている。
「二手に分かれないか?」
「分かれて如何する…」
桐条は頭を抱え一つ溜息を吐く。
しかし其の様子を全く気にする事無く真田は更に続けた。
「そろそろこの階にも馴れて来ただろう、だから腕試しを」
ぱし、と両手につけたグローブを合わせると無邪気に笑う。
危機感を微塵も感じられない代わりに、悪意も感じられなかった。
腕試しをしたい、本当に其れだけなのだろう、他意は無い。
真田は純粋に己の強さを求めているらしかった。
「これは遊びじゃないんだ、解っているだろう!?」
険悪な空気では無いが、場所が場所故に少し妙な空気ではあった。
桐条は首を横に振り、もう一つ大きな溜息を吐くと後ろに居た荒垣に声を掛ける。
「はぁ…何とか言ってくれないか」
溜息交じりの其の声は拍子抜けしたのだろうか、幾らか緊張感は失せていた。
頭を抱える桐条と素振りをする真田を交互に見、荒垣は小さく笑う。
「…好きにすりゃ良い」
ぼそりと言葉を吐き出すと壁にもたれ掛かり、もう一度小さく笑った。
言葉に桐条は又頭を抱え溜息を吐き、真田は嬉しそうに燥ぐ。
「じゃあ、俺と美鶴、シンジと黒姫」
「だから遊びじゃないと…」
「何だ、其の組み合わせは」
再度桐条は頭を抱え溜息を吐き、真田は嬉しそうに燥ぎ、荒垣は吐き出す様に笑った。
こうなると止められないのが常で、ムツキはいつも三人を交互に見上げ静かにしている。
「シンジ、どっちが先に上に着くか競争だ!」
まるで子供の様な、否、丸きり子供そのものの無邪気な表情。
「あー…付き合ってやるか…」
荒垣は眉を顰め笑い呟き、壁から背を離すと手にしていた斧を担ぎ直した。
「ちょっと待て、私はまだ承諾してい」「行くぞ美鶴!」
真田は強引に桐条の腕を引っ手繰ると駆け出す。
桐条の言葉は其の耳に届けど、言う事を聞くつもりは無いらしい。
「待てと言っ」
そして桐条の声は次第に遠くなり聞こえなくなってしまった。
こう言った一連の流れは、いつものこと、だった。
誰も不快感を覚えてはいない、大抵何かを決める時はこう言った流れになってしまう。
ムツキは真田が桐条の手を引っ手繰り向かった方向の闇を唯、眺め呆けていた。
「…おい、行くぞ」
上の方から声が聞こえ、ふ、と我に返ると、見ていた方向とは反対側に荒垣の背が有る。
自分よりも随分と高く、しかし少し曲げられた其の背を追うのも、いつものこと、だった。
少し違ったのは其の前に真田と桐条の姿が無い事。
二手に分かれると言う様な危険だと思われる行動は、今迄した事が無かった。
「はい」
短く返事をすると踵を返し闇の方へ向かう。
0時29分。


「ムツキ、お前」
はた、と荒垣は足を止め振り返ると、やや気の抜けた声で言う。
「…回復、出来ねぇんだよな?」
「はい」
「長居すると危ねぇな…」
「はい」
「…ちっ、面倒だな」
「ここの、シャドウは、そこまで、強く、ありません」
「ああ、でも…アキ、編成間違ってるだろ…コレ」
荒垣が小さく笑い言葉を吐いた瞬間、ムツキの表情は曇った。
無論其の遣り取りが不快だったからでは無い。
笑った荒垣の背後に黒い影が見えたからだった。
ムツキはおもむろに腰のベルトに挟んだ短銃を抜き取ると、こめかみに銃口を当て引き金に手を掛ける。
「お前、何…」
勢い良く引き金を引くと、パキン、とガラスの割れる様な音が辺りに響き渡った。
「ガラティア、」
ムツキが呟くと、ふわ、と其の背後に先刻の少女の影が浮かび上がる。
(あそんで、いいの?)
「うん、」
頷いた事を確認し、ガラティアがぼろぼろのスカートの両裾を抓んで御辞儀の様な格好をすると、何かを引き擦る様な音が響いた。
音が止むと頭を上げ小さな声で笑う。
いつの間にか黒い影は綺麗に消え去ってしまっていた。
(おやすみなさい)
ふわり、と身を翻し荒垣の方に向き直ると、途端くすくす、と笑い声を上げる。
(あはは、アラガキかっこわるぅい)
捨て台詞を吐き悪戯に笑うと、ふわ、とガラティアは空気に溶け入り見えなくなってしまった。
「……ちっ」
其の声は荒垣にも届いていたらしく、決まりが悪い様なそんな顔で一つ、舌打ち。
そしてムツキを見ると小さく呟く。
「…早く言えよ」
「すみません」
ムツキは何だか悪い事をした気がして咄嗟に言葉を吐き出した。
既に背を向け歩いていた荒垣は立ち止まり、ちら、と目だけ向けると直ぐに前を向く。
一つ息を吐くと、聞こえるか聞こえないかの声でぼそりと呟いた。
「…悪ぃな」
ムツキは其れが息の漏れる音にしか聞こえず、聞き返そうと思ったものの直ぐに止めてしまった。
余り喋っていると黒い影に隙を与えてしまうと思ったからだ。
0時44分。


気を取り直したのか顔を上げ、一度首を横に振ると歩き始める。
「さっさと歩け」
「はい」
荒垣の声に頷くと少し歩みを速めた。
「次は…俺が先制するから、な」
歩きながら吐き出された其の言葉にムツキは頷く。
いつも無表情の其の顔には、ほんの僅かに笑みが浮かんでいた。

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