異形譚 一

月が細く、薄雲を纏う夜だった。


空を見上げるとぼんやりとした影が目に入り、反射的に手中に有った鎖鎌の刃先を大げさな袖から空中に送り出す。
ど、と僅かに鈍い音。
鎖を伝い其の影迄移動する時間は瞬き一度分、影に辿り着き己が感覚の狂いの無さを確認しようと足元に目を落とす。
「愚か、単身か」
零れた其の音に影は頭を上げ瞬間、息を飲んだ。
月明かりに浮かび上がった姿はまるで化物の様。
細い月から頼りなく降る光が徐々に影の表情を明らかにする。
案の定忍びの者だったが、其の表情は恐怖では無くどうやら驚愕だったらしい。
肩に先程の鎖の先が深く突き刺さっていた事も相俟って息は速くなって居り、ぽつり、と漏らした言葉にも幾らか消耗が感じられた。
「女、か…」
其の言葉に返るのは、はは、と喉の奥から湧き上がるやけに渇いた笑い声。
「だから何だ?」
吐き捨てる様に言い、忍びを屋根瓦に突き落とし又笑う。
近くに着地すると今度は力任せに鎖を引いた。
忍びは倍増した痛みに思わず息を漏らし這い蹲った儘鎖の先に目を上げる。
目に映った其の姿はやはり女と認識させるものだったのだろう。
「ああ…御前が、鵺、か」
まるで知った様な其の口ぶりは何処か鵺の癇に障った。
間違っては居ない、確かに鵺と呼ばれて居る。
女で有る事も自分が鵺だと言う事も相手に知れているのか、と一つ溜息を吐き、忍びの頭を掴み上げた。
「運の悪さを呪うと良い」
一言吐き出し鵺はつまらなさそうに笑うと、手にした得物を振り下ろす。
狼狽も動揺も無い確かな手はやがて忍びを何だか解らない もの に変えてしまった。
烏や何かが喰らうだろうと、屋根瓦の上に捨て置き其の場を去る。


「塵を屋根に捨てて置いた」
風魔の背後に現れた鵺は短く報告を済ませ、彼が頷いたのを確認すると早々に元居た場所に戻って来た。
夜は長い。
先刻の忍びは単身では有ったが、何処かの手の先で有る事には間違いないだろう。
何処の者か、と頭を捻ろうとするも鵺は其れを止めた。
(何処の者等如何でも良い、)
伏せていた目を上げ、一つ息を吐く。
(屠れば良いだけ、だ)
一度目を閉じ空を見上げると何かが光って見え、夜の音に混じる僅かな呼吸音が耳に入った。
鵺は位置を確認すると其の方向に神経を集中しながら、目を閉じ息を潜める。
瞬間、力の抜けた声が響く。
「あー…小田原にはアンタも居たんだったねぇ」
声の方向は暗闇。
其の方向に向けくないを投げ付けるも、手応えは無い。
「はっずれー、俺様そんなのには当たんないよ」
厄介だった。
鵺はこの手の 忍ばない忍び の相手をするのは不得手だった。
ぎり、と唇を噛み締め背後を振り返る。其処には佐助の姿が有る。
「アンタさー…もうちょっと女の子らしくしたらどう?」
此れが所以なのかも知れない。
本来言葉の要らない世界だと言うのに、こうぺらぺら話されては堪らないのだ。
心を無に仕切れず、世を憎悪する事を拠り所にしてしまって居る鵺は言葉で撹乱されてしまうのが弱みだった。
「貴様は、」「あ、俺様そんなに有名?」
返答は素早く、恐らく世間一般では 人当たりの良い と言われるであろう其の口調に、鵺は嫌悪感を覚えて居た。
「口数が多い」「あはは、一回会った事有るよねぇ小田原の番犬さん」
ぎり、と今度は唇を噛み切りそうな勢いで噛み締め、押し黙る。
其れを良い事に佐助は更に楽しそうに口を開いた。
「伝説の忍びの部下だってのに何?怒っちゃったりすんの?」
鵺は其の言葉に漸く我に返り嫌悪感を拭おうとする。
本来忍びには嫌悪や憎悪すら要らない、と首を横に振り目を向け直した。
「言葉なぞ要らん」
先程の攻撃が外れた所為も有ったのだろう、未だ冷静になれず上手い切り返しと言う物が出来ない。
其れを察知したのか、佐助は顔を歪ませ楽しそうに笑いながら言葉を続ける。
「あーあー冷静になんなよ?別に争いに来た訳じゃないんだから」「……」
冷静の無さを見破られ黙り込んだ鵺を見て、更に笑いながら纏っていた殺気を消し去る。
何をしに来たと言うのか、目的に見当がつかない。
「そうやって黙ってると綺麗なんだからさー」
其の言葉と態度に耳は反応する。
女の子らしいだ綺麗だと関係の無い言葉でもって馬鹿にされている様な、そんな気分だった。
戦火で捻くれひん曲がりささくれ立った神経は、其の言葉に嫌悪感しか覚えない。
間違っても綺麗とは言えない襤褸雑巾の様な自分の姿を再認識させられる。
全身を覆う火傷の痕と縫い合わせられた顔の皮膚、焼けて灰の様になった髪に艶は存在しない。
人には異形のものに映るだろう。
容姿の異様さ、其れは大きな劣等感となって鵺に圧し掛かっているものだった。
其れを捨て切れない己が未熟さが恨めしく又、ぎり、と唇を噛み締める。
「黙れ」
「そうそう、もっと氷みたいになって貰わなきゃ、アンタの上司みたいにさ」
言うだけ言うと佐助の気配は闇に溶け入り、目の先には月光を浴び浮かび上がる木肌だけになっていた。


「一人取り逃がした」
風魔は顔を向ける事無く小さく頷く。
其の様子からは感情等微塵も感じられない。
「あの派手なものが来て言うだけ言うと戻って行った、処分してはいけないのか」
おもむろに風魔は立ち上がり鵺の方を向くも表情は隠れて見えず、言葉を発する事も無い。
「心を捨てろと言いたいのか、」
処分したい、と言うのは欲求である。
其れを持ち込むなと言いたいのだろうか。
吐き捨てる様に言い残し鵺は其の場を後にした。

空は白み始め番の交代の時を知らせる。

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